●第77回 2019.6.28(金) 報告
テーマ バザールカフェで仲間と共に在ることを通して
〜まともがゆれる〜
話題提供 松浦 千恵さん
(バザールカフェ・依存症専門の精神科クリニック)
※第77回の記録は松浦さんに校正して頂いている途中です。
京都御所、同志社大学のすぐ側にあるバザールカフェ。バザールカフェとは、さまざまな背景を持ち異なった現実に生きる人々が、ありのままの姿で受け入れられ、それぞれの価値観が尊重され、社会の中で共に生きる存在であることを相互に理解し合う場の創出を目指している場所です。働く機会の提供、その人に必要な関わり(ソーシャルワーク)、ネットワーク作り、居場所の創造などを行なっています。
私はバザールカフェと依存症専門の精神科クリニックで働いています。多くの時間を依存症を抱える仲間と過ごしています。私が今までまともだと思ってきたことなんて、まともじゃなかった。もっと言えば、私はまともだと思ってきたことがまともじゃなかった。そんなことの繰り返しの中で、考えたり葛藤していることを呟いてみたいと思います。
□ まともがゆれる
いま、社会の中で生きることは本当に大変である。その背景には、目に見えない抑圧となっている社会規範という「まとも」の中で生きてしまっているということがある。それは、とてもしんどいことである。
□ バザールカフェとは
さまざまな背景を持つ人たちが安心して集える場「バザールカフェ」は、日本キリスト教団京都教区が集会場として、北アメリカ合同教会と使用契約を結んでいる宣教師館の1階部分で1998年5月から運営を開始して21年目を迎える。
北アメリカ合同教会は、社会正義、移民問題、マイノリティー問題、セクシュアリティに対しての取り組みを積極的に行っていたため、バザールカフェプロジェクトの理念を設立当初より理解し、支えてくれた。この活動の願いは、人とつながることを通して生きる力を取り戻して欲しいということである。この活動が注目されNHKで報道されることになったが、実は長年、活動を外に出すことに悩んできた。その理由は、メディアに出ることによってバザールに来ている人のプライバシーが侵害されることと、さまざまな背景を持っている人たちと地域との融合の難しさにある。
□ バザールカフェの理念
1、バザールカフェは、セクシュアリティ、年齢、国籍、人種、病気などさまざまな現実に生きている人々がありのままの姿で受け入れられ、それぞれの価値観が尊重され、社会の中で共に生きる存在であることが相互に確認される場を目指します。
2、バザールカフェは、従来のカフェの概念を拡げ、人と人とが出会い、交流を深め、情報を交換し、社会で行われているさまざまな活動の窓口となり、社会のニーズに応えたサービスを提供していきます。
3、バザールカフェは、さまざまな事情を持つ滞日外国人、病を抱える人たちなどに就労の機会を提供し、同時に共に働くことにより、共に学び成長していく機会を大切にしていきます。また、社会問題を学ぶ機会を学生に提供していくことを目的とします。
□ 4つの支柱
1、痛みを分かちあえる交わりづくり、
2、見えなくされている人たちの声を聴き、
3、ありのままでいいのだと思える空間をつくり、
4、援助する人、援助される人という関係ではなく、私とあなたという関係の中で、お互いを支え合っていく空間をつくっていく
□ バザールカフェの主な活動内容
1、カフェ(就労機会提供など)
さまざまな背景を持った人たちと一緒に運営するカフェ部門では、滞日外国人やさまざまな理由で就労につくことが困難な人に就労の機会を提供している。他者と一緒に協働しながら少しずつコミュニケーションをとり、人の中に居ることや役割を見つけていくことで自分に対する自信を取り戻したり、自分や人を再び信じ、生きていくことを感じてもらえる場をみんなで創っている。働いている人たちは、滞日外国人(主に女性)、依存症の仲間(京都ダルクと連携した就労支援)、精神や身体の生きづらさを抱えている人、長年ひきこもっていた人(京都府青少年ひきこもり事業職親制度)などがいる。
2、ソーシャルワーク
私たちが関わっている人の中には、社会制度の狭間にいる人や既存の制度には収まりきらない課題を抱えた人たちがいる。また、社会的にマイノリティとされている人たちが多い。彼らの困りごとをアセスメントし、支援方法を考えたり、他機関の支援者と連携してその人に関わったり、制度や支援方法が無いものは新たに創るということをしている。
○カウンセリング ○必要な資源、機関へつなぐ ○その人だけでなく、家族への支援
○学習支援 ○プログラム開発
3、プログラム開発運営とネットワークづくり
バザールカフェは、薬物依存症からの回復を願う人たちの居場所の創造を行なっている。
2015年から毎週行なっている「サロン・ド・バザール」は、開催頻度にも意味がある。当事者にとって1週間なら待てる。しかし、それ以上になると難しいという当事者中心、当事者の視点に立った取り組みである。
また、女性依存症者の集まる会も月に一度開催している。
「しゃばカフェ」は、刑事施設出所者に関わる支援者の学びとネットワークづくりの場となっている。
4、社会への情報発信
さまざまな社会に対する啓発活動を行う情報発信部門では、学生のフィールドワークを受け入れ、学生がいま社会で起きていることに出会い、関心を持ち、関わる事を学ぶ機会をつくっている。机や本で「問題」や「課題」として学ぶだけではなく、一緒に働くことによって、その人と出会い、その人が抱える生きづらさを知り、そこで留まり、時間を共有し、共に悩んだり話しをしたりすることで人が変化していくことを感じる。そしてまた、学生自身も今までの価値がゆらぐことによって自ら変化していく。
□ メタノイア 〜視点の変換の場としてのバザールカフェ〜
Temporary Abled Body=TAB(一時的にできる身体)という理解である。それは、新たな視点を持つ機会につながる。
「できる」ことのみに価値を認める社会の趨勢が強いいまの社会は、「できなくなったときに、生きにくい社会」である。そのような社会では、できない人は価値がないと思ってしまう。自分が障がいや病気を負ったとき、生き辛い社会に生きることになる。だからこそ自分自身もTABだということを意識し、社会を見ていくことが大切である。
バザールカフェでは優先的にさまざまな事情を抱えた人たちがその状態の中でできることをし、できないときはできる人たちが助け合っていくことを大切にしている。
また、メタノイアをさかさまから読むと「愛のため」となるそうだ。
□ 人を属性や枠組みで見ない 〜本当の出会いと鎧をまとった自分〜
バザールカフェはこれまで制度を使ってこなかったこともあり、あまり枠組みを意識せずに、その人自身、人格に出会ってきた。しかし、すでに何らかの制度を利用していたり支援者がついていたりすると、属性が先に与えられるようになる。前回のスピーカーである渡邊洋次郎さんも「属性とは別で付き合ってくれる千恵さんの存在に助けられた」と語っておられる。まさに人格と人格の出会いと言えるのではないだろうか。
依存症者にしても、10人いたら10人の生き方、使い方、回復の仕方があるが、枠にあてはめてジャッジしてしまうことがある。本当に必要な支援とは人を属性や制度の枠組みにあてはめて見ないことから始まるのではないだろうか。
□ 助ける、助けられるという一方向的な関係性ではなく
千恵さんはバザールカフェの仲間と出会い「私も彼らと何も変わらない」「助けを必要としている弱い存在である」と感じ、強くあらなければいけないということが前提ではなく、弱さを前提としたあたりまえの人と人との関係性の重要さを訴えている。助けるときもあるし、助けられるときもある。お互い様、よろしくという互酬性の関係によりお互いの尊厳や役割が守られる。
□ アジュールな場と存在の肯定
最初は「バザールはいい場所」となっても、その後苦しくなっていくのはなぜだろうか。ちょうどいい具合の関わりは容易ではない。そして、バザールは社会のまともとは違う価値を持ってやっていきたいけれど、結局は社会のど真ん中にいるんじゃないだろうかといった当事者(支援者も含む)としての葛藤がある。そこで一つ言えることは、私たちは万能ではないということ。
だからこそ、存在の支援(存在の肯定)とアジュールな場が必要である。例えば、HIV陽性者でゲイで依存症を抱えるなどの多重スティグマにより魂の傷つき体験を重ねてきた人の悔しさと苦しさ、そしてlife(人生)を共有させてもらえる、できる居場所が必要である。そこには、いつでも、よくきたねと言ってもらえる安心と社会規範という相反するものという構造的な問題がある。
□ これらは特別な人の問題ではない
1、存在そのものを肯定することってどういうことということを考えていく。
2、大切な場所や人ができることの恐怖を当事者間共通して語ることの意味
3、「使っていても使っていなくても苦しい」
「薬を使っても、使っていなくても苦しいなら、使ったほうがいいじゃないか」と考える仲間と出会った。その理由を考えると、使っている苦しさというは本人が一番知っているので理解のできる苦しさである。しかし、使っていない苦しさというのは、もともとその人が抱えている魂の傷つきなど自分でもよく理解しきれていない苦しさで、いつまで続くのかもわからない、コントロールの仕方もわからないというギリギリの苦しさだということがわかった。その横にいる私には何ができるのだろうか。
4、自助グループの仲間の中で語ること
自助グループでの依存症の仲間とのフェローシップが大切なのではないだろうか。
5、何かに合わせようとすることで悪くなっていく病気
今までさまざまな生きづらさにより魂の傷つきなどを経験した人に対して、「社会の中で認めてもらうためには、そこに合わせて頑張らなければいけないのではないか」ということをバザール自身もしてしまっているのではないだろうかと考えることもある。その中で頑張り続ける、走り続ける、止まれなくなり破綻するのではなく、地域や社会との融合点をスタッフが必死に探しているので苦しい。その苦しさの背景には自分が「まとも」であらなければならないというところに押し込まれ、押しつぶされそうな感覚がある。もう少し社会的な責任などについてもを緩めることはできないだろうか。