●第85回 2020.7.3(金)報告

テーマ  すべての子どもが安心に生きること
     〜外国にルーツのある子どもとその背景〜

話題提供  金 光敏(キム クァンミン) さん
       Minamiこども教室実行委員長 
       (特活)コリアNGOセンター事務局長

□ Minamiこども教室
 Minamiこども教室は、2013年9月に大阪市中央区島之内の地域で始まった、なんば、心斎橋、日本橋などの歓楽街界隈に暮らす外国ルーツの子どもたちのための夜間教室である。Minamiこども教室は、学習を支援するという名目で子どもを集め、その背景にあるさまざまな生活の困難を地域とともに解決に向けて取り組むという目的で始まった。

□ Minamiこども教室誕生のきっかけとなった痛ましい事件
 2012年4月15日に島之内2丁目でフィリピンルーツの1年生の子どもが母に殺められるという事件が起きた。それは、入学式から1週間後の出来事であった。入学式では、タブレットで嬉しそうに子どもの写真を撮る母の姿を何人もの人が見ている。始業式には母親が抱え切れないほどの学用品を持って「センセイ、なにがいりますか」と片言の日本語で問いかけていた。先生に指差しで教えてもらうためにすべての荷物を持ってきていた。当時の教員の印象は子どものことを大事にする一生懸命なお母さんといったものであり、よもやその1週間後にそんな悲劇が起こるとは思っていなかった。この事件は、困窮と社会的孤立が背景にあると考えられ、慣れない子育てや学校のことなどのプレッシャーが重くのしかかった母により、一家心中が図られようとした事件であったことがわかっている。

□ Minamiこども教室開始
 2012年4月に島之内で起きた、フィリピンルーツの痛ましい親子心中事件を経験した大阪市立南小学校の山崎一人校長(当時)は、「学校になにができたのか、学校だけでは子どもは守れない、2度とこのようなことを繰り返さないためになにが必要なのか」と考え、地域を駆けずり回って子どもや親の味方になってくれる人の存在を探しているときに金光敏さんと出会った。
 その当時、金光敏さんは、大阪の教育に深くかかわっており、大阪でなら社会的孤立や貧困を理由とする外国ルーツの子どもの犠牲を絶対起こさせることはないという自負と自信を持っていた。他地域での事例を見て「大阪なら救えたのに」という感覚が常に頭にあった。でも、それは傲慢であった。自らが活動フィールドとする目と鼻の先で、子どもの犠牲があった。自らの考えの甘さを自問自答した。そんな中で、山崎校長先生と出会い、いてもたってもいられず2013年9月の第1火曜日に仲間たちとMinamiこども教室を開始した。

□ まなぶことに傷ついた子どもたち
 学校には、日本語理解の差や生活・学習環境もさまざまな子どもが存在していた。学校はとても丁寧に子どもたちを支えていたが、ただすべてを学校だけで対応することの難しさを感じとっていた。多様なルーツや文化的背景もつ子どもたちのなかには、不本意な来日による学習意欲の喪失や、渡日の過程で学習につまずきを抱え、そのまま年齢とともに学年だけを重ねていくということが起きていた。
 そこで、Minamiこども教室は学校と連携して、まずは学習支援を目的にスタートし、それにつながって生活全体を支える安全な居場所に発展していくことをめざした。
 2013年9月の第1火曜日、第1回目こども教室には多くの外国にルーツを持つ子どもたちが集った。しかし、すぐに学習に向かうことにはならず、最初に出てきた言葉は「しんどい、めんどくさい、もうやったし」だった。その姿を一見すると、学習習慣のない子ども、やる気のない子どもと映ってしまう。でもそうではない。それは、まなぶこと、生きることに傷ついてきた子どもたちの姿なのだ。
 Minamiこども教室では、子どもに合わせ、自分の学年より下の学年の学習に取り組むこともある。まなぶ喜びや、自分にもやれるという達成感を大切にした。学習支援を前面に取り組むMinamiこども教室ではあるものの、勉強よりも大切にしていることがある。それは、安心で安全な居場所となることだ。

□ 子どもたちの寄りどころを夜間に
 ミナミで働く親のもとに暮らす子どもたちは、夜間一人でいることが日常である。その子どもたちを見守り、安心の場をつくり出すために夜間にねらいを決めて教室を開いた。この子たちの寄りどころになりたい、この子たちが、もたれかかっても私たちが背もたれになり支えられる活動をめざしたい、家庭との連携や地域でのネットワークが必須だった。子どもたちは教室の中でたくさんの「つぶやき」をもらす。教室が終わる時間になると20時を超えるのでスタッフが家庭まで送っていく。自宅までの送迎も含めて教室の大切な活動の一環である。帰り道、子どものつぶやき(語り)は家庭背景や子どもの状況を知る上で大切な情報となった。

□「私は高校には行かない」というつぶやき
 小学5年生のAちゃんは教室の帰り道、ミナミの風俗店やホストが立っている道を小走りで通り抜けていく。Aちゃんに「どうして走るの」と聞くと、呼び込みのお兄ちゃんが茶化すので、「鬱陶しい」と答えた。ある夜は18歳未満立ち入り禁止の店を見て「これなんの店?」と聞かれて答えに困った覚えがある。これが彼女らの日常の暮らしである。その帰り道でAちゃんは「私は高校には行かない」とつぶやいた。高校どころか大学まで応援することを伝えたのちに、なぜそう思ったのかを聞いた。
 Aちゃんの母はフィリピン人のホステスの中では年長者であったため、若いホステスの面倒をみたりしていた。Aちゃんは、そんなに歳の違わない若いホステスが毎日着飾って仕事に向かっていく。Aちゃんの見た世界は、学力や学歴を活かして生きられる社会ではない。ホステスとして働く若い同郷の人々は、それなりに収入があり、ときに、U S Jに行って遊んだ話やレストランでな食事したなどの話をAちゃんに聞かせた。
 Aちゃんの目から見た、自らの将来を投影するロールモデルは結局、そうした大人たちの姿だった。とても選択肢の幅は狭い。どうせ私もそうなると考えて語った言葉が「私は高校には行かない」であった。こんなつぶやきを耳にしながら、どのようにして支えればこの子どもたちが多様な選択肢を提示し、その中から自己実現をはかる、最善の選択肢を探すことができるかを考えた。職業に貴賤はない。ホステスがいけないのではない。しかし、人生の選択肢がこれしかないと思ってはほしくなかった。

□ まず、不安定層から不況の刃に晒される
 新型コロナウィルスの影響ですべての人が大変な状況にある現在、私には一つの実感がある。それは、リーマンショックのときも同じだったが、今回も間違いなく不況は外国人からやってきている。その後少し間を置いて日本人に影響が出てくる。まず不安定層へ不況の刃は牙を剥いて襲いかかってくる。特別定額給付金について、政府は外国人にも給付されることを表明したが、実際には、外国籍の保護者たちに正しい情報は届いていなかった。
 Minamiこども教室は、福祉緊急貸付、住居確保給付金をはじめ各種申請の手伝いも続けている。行政は、日本人も外国人も平等に各種サービスを利用できると説明する。しかし実際は、外国人がアクセスしづらい状況があり、容易に制度の隙間や貧困にこぼれ落ちやすい構造がある。そのような不安定な家庭に暮らす子どもたちが、自尊感情を持ち、将来の夢や希望を持ちながら、進路準備を進めるということは本当に困難が多い。Minamiこども教室が向き合っているのは、そうした子どもたちや親たちへの伴走型の支援だ。

□ Minamiこども教室の使命のひとつ
 Minamiこども教室だけがいくら頑張ってもダメなときがある。日本は縦割りの社会であるため、それぞれの領域や制度の間に隙間の問題が生まれる。そのため、Minamiこども教室は、積極的に学校、行政、社会福祉協議会や町内会などと連携することで途切れ目のない支援を実現したいと考えている。
 Minamiこども教室には、一つの覚悟がある。それは「一度始めたら、やめないこと」つまり、やり続けること、あり続けることが使命であると考える。次世代へのバトンパスや役割分担は行うが、途中でやめることはしない。そのロールモデルの一人がまさに西成区の荘保共子さんである。とにかく続けるしかないんだという覚悟である。

□ 怒り
 「どうして在日朝鮮・韓国人の金光敏さんが、フィリピン、中国、ブラジル人の支援をこうまで行うの?」「あなたの所属団体は、コリアN G Oセンターでしょう、コリア以外のことに懸命になる、その背景には何があるのか」とよく質問される。私には、困っている子どもを助けたいとか、苦労している人を助けたいという感覚があまりない。私の中にあるのは「怒り」である。それは何の怒りか。
 Minamiこども教室の子どもたちやブラジル人学校の子どもたちの姿を見ていると、時折、タイムスリップしたような感覚に陥ることがある。その理由は、自分の幼少期のころ。あれから30〜40年経過した現在もまた何も変わっていないと感じるから。彼らを眺めたときに、主人公が朝鮮・韓国人から、フィリピン人、ブラジル人にかわっただけだと感じる。外国人の置かれている状況は、当時と本質で変わっていない。それを垣間見たときに、沸き立つような怒りを覚えるのだ。「あんな苦労は、もう自分たちで十分だったはず」という思いである。

□ 誇り
 現在、私は金光敏(キム クァンミン)という本名で生きている。私にも通称名はあったがすべて削除した。その瞬間こそが、私にとって植民地政策である創氏改名を克服した瞬間だった。自らが朝鮮・韓国人であることに誇りを持ち、出自を明らかにして生きていくことの宣言だった。
 しかし、私はもともと民族意識が高かったわけではない。幼少期は日本名(通称名)を名乗り、出自を隠して生きていた。多くの在日の仲間がそう思ったように私も、「なぜ俺を産んだんだ」と親を恨んで大きくなった。私も猪飼野の朝鮮人集住地域で生まれ、自分の将来を投影できるロールモデルを持たずして育った。

□ 国籍の違いによる決定的な違いを突きつける
 私が在日であることを嫌だと思って生きてきた理由は二つ。ひとつは経済的に貧しかったこと。もうひとつは、厳しい差別の現実だった。
 今でもヘイトスピーチの問題はある。さらに当時は、生活の中に差別が飛び交っていた。差別の問題は、心の問題、思いやりの問題と多くの人は思うかもしれないが、でもそんな生やさしいものではない。国籍の違いは決定的な障壁だった。
 私は幼いころ健康保険証がなかった。かつて健康保険法には国籍条項があった。国籍が違うと国民健康保険は活用できず、保険診療を受けられなかった。十分な医療も受けることができなかった。私の父は日給月給で働き、母はミシン工をしていた。そんな両親が子どもを自費で病院に連れて行くことの困難は相当だった。不動産屋には外国人不可という貼り紙が貼ったし、公立小学校への就学通知も、案内も外国籍の子どもには及ばなかった。
 幼少の頃から鉄屑を拾い、字の読み書きのできない母が役所に行って入学のお伺いを立てなければならず、惨め以外の何物でもない。そのような現実のなか、何をどう展望にして生きていいかわからなかった。

□ 呻き
 私は大阪市立生野中学に通った。当時、生野中学は凄まじく荒れていた。500人くらいの同級生のうち、1クラス分くらいの人数が、荒れの真っ只中で暴れまくっていた。先生の手には負えなかった。警察が定期的に見回りに来るような状態で、何人もの生徒が警察のやっかいになるような状態だった。
 問題は、暴れている子どもたちとはどのような子たちか。荒れのど真ん中にいる40〜50人の仲間のほとんどが在日の生徒だった。生野中学校区には、大規模な集住地区と中小規模の朝鮮人集住地区が複数あり、在校生の4割ほどが在日の生徒だった。数で言えば、その内の約3割が荒れのど真ん中にいた。
 当時を振り返ったとき、胸が引き裂かれるような気持ちになるのは、日本人の生徒たちに在日は怖いと印象付けてしまったのではないかということ。つまり差別や偏見を助長してしまったのではないかという思いである。
 さらにもうひとつ。すべての在日の子どもが暴れていたわけではない。在日の生徒のなかにもじっと席に座りじっとまるで嵐が通り過ぎるのをただひたすら耐え、心で泣いていた生徒たちもいたということ。「やめて、やめて」「あんたらが暴れるから朝鮮・韓国人がダメって言われるねん、私までダメだって言われるねん」と。同じ国の子どもたち同士が互いを傷つけながら、生きていた。

□ お母ちゃん
 今、思い出してもつらいことがある。当時、私の家によく学校の先生が来たり、母が呼び出された。そんなとき母は90度に体を曲げて頭をさげ、謝った。自宅のガタガタの板間に額をつけて「堪忍してください。この子は悪うおませんねん。みな私が悪うおますねん」と言って謝った。「私ら、学がないから、この子に難にも教えられん。みんな私が悪いんです」と。ぐっと唇を噛みして先生に謝るわけです。私はその姿を見て本当に親が不憫に思えたし、悔しかった、「悪いのは俺や、なんでおかんが謝んねん」。
 先生方は苦労して教員になられたと思うが、大学まで出ているじゃないですか。でも、私の両親は小学校もろくに出ておらず、字の読み書きすらまともにできない。ようやく辿り着いた一足あたりの工賃一円三十銭の仕事をして生きているのです。生活もみじめながら、学のないことを恥ずかしいと思って生きてきた母が、大学を出ている先生に頭を下げて謝っている姿を見せつけられることは、屈辱以外の何ものでもなかった。母はよく泣いていたけれど、その姿を見ていると、社会に対する憤り、怒りを抑えきれず、またなぜ自分は生きているのか、本当にわからなかった。そんな現実が当時の私たちを取り巻いていた。
 中学生になると、もう目と鼻の先。つまり、自分も父や母のようにしか生きられない、低賃金で長時間、重労働の将来が迫る。そんな状況下で、数学の方程式を覚えようとするか?英単語を覚えようとするか。覚えたところでどうせ俺なんて、と思う。それが当時の私たちだった。
 あるとするなら、めいっぱい悪いことで生きていくか、めいっぱい金儲けをしてその力で周りから馬鹿にされないようにするか、貧相な考え方しか思い浮かばなかった。当時の仲間にはアンダーグラウンドに生きたヤツもいて、自分も言わば紙一重だった。しかし、そんな私の人生を大きく変えてくれたのは、一人の先生との出会いである。

□ 民族学級で出会った恩師と未来への希望
 私の人生を変えてくれたのは、中学2年の担任、民族学級顧問の乾啓子先生だった。
 乾先生は、親の前で私のことをまったく悪く言わなかった。乾先生が家庭訪問から帰った後、母は「乾先生は仏さんや、あんたみたいな子を優しいと言ってくれた」と語っていた。乾先生の言葉に救われたような気持ちになった。いや私以上に救われたのは母ではなかっただろうか。
 また、民族学級(朝鮮文化研究会) に誘ってくれたこと。民族学級に入級するということは、国籍、出自を明らかにして生きていくことを意味する。当時私は、韓国や朝鮮から逃げたいと思っていた。しかし、乾先生は「あんたは逃げて生きていくつもりか」と強く民族学級に導いた。
 被差別の立場に生きる人間がそれに向き合うにはかなりのエネルギーがいる。乾先生は粘り強く、かつかなり強引さでもあった。その手法は学校内で批判も受けた。でも、それがあったから今の私がいると言える。大抵の場合、「民族学級に行く?」と聞かれても「そっとしておいてください」となる。私も自らの意思で民族学級を選ぶことは絶対にしなかった。差別される恐怖のほうが勝っていたからだ。乾先生はそのことを知っていた。だから、民族学級に誘った。差別を乗り越えるために民族学級での仲間づくりが必要だと考えたし、教員として被差別の子を放置できないという責任感もあった。また、差別する側の立場に立つ日本人の責務としてこの問題と向き合わなければならないと考えた。

□ 差別される側である私たちにこそ正義がある、人間の真実がある
 ある先輩が「差別する側ではなく、差別される側にこそ正義がある」と語った。そう。なぜ差別される側の人間がおどおどして社会を恐怖して生きていかなければいけないか。むしろ、そうすべきは差別する側であるべきだ。差別される側である私たちにこそ正義があり、人間の真実がある。それを自覚したいと思った。
 この言葉は「今こそ烙印を投げ返すときが来た」「がエタであることを誇るうるときが来た」。水平社宣言と通じる崇高な理念だ。「韓国、朝鮮で何が悪いと言い返す。つまりその階段を上るのは非常にしんどい。しかし、登りきったら社会では必ず解放が待っている」それを知っているから、乾先生は少々強引であっても私を民族学級に引き入れてくれた。
 おとなになって先生と話したとき、「当時、批判された。そこまでやったらあかんって」。でも、乾先生のあのエネルギーがあったからこそ、今の私がある。その出会いがなければ、私は私の真実の姿を明らかにして生きることができなかったかもしれない。

 □ その人の背景に迫らずして対人援助はなし得ない
 乾先生が私にしてくれたのは、「この子は何に苦しんでいるのか」に気づいてくれたこと。対人援助の側に立って私はいま「次は、私が乾先生になる番だ」と考えている。私、結構強引なのですが、そこも引き継いでいるかもしれません。
 どうやったら相手に信頼してもらえるのかということを考えながら、本当のしんどさがどこにあるかを深く考えながら対人援助に携わっている。先ほど話したように私には「怒り」がある。結局マイノリティの子どもたちが社会から取り残される現実を知り、私は何もしないのかと自分に問うたことが原点になっている。教育や福祉の世界において、その人の背景に迫らずして対人援助はなし得ない。

□ ジャッジではなく声にならない声に耳をすます
 中学生Bちゃんが泣きながら電話をかけてきた。S O Sを出してくれてよかった。「わたしだけが、わるいんじゃない」と辿々しい日本語で語ったので、これは学校に話さなければいけないと考え、Bが所属する中学校に連絡した。
 学校の先生は「事実経過の確認をします」と答えた。それはとても大切なことである。しかし、子どものトラブルで、かつ時間経過した事案の事実確定はなかなか難しい。加えて、事実を明らかにして、どちらが被害者でどちらが加害者かを確定することに心血を注ぐことも、学校のすべき仕事ではないように思う。もし傷つけられている立場にもかかわらず、学校が見過ごしていたならば後追いでも補わなくてはいけないだろうし、あるいは、私に泣きながら電話をかけてきたBが、演技だったとしても、「嘘ついた」と迫るのではなくて、この子が嘘をついてまで何から自分を守ろうとしているのか、そのことに思いを巡らせなければならない。
 今起こっている出来事の中から、子どもたちが抱えていることを知り、そこから成長の糧として学ぶべきことは何かを大人がしっかり受け止めなければならない。

□ 自己責任論を強化する社会
 プライバシーや個人情報保護、コンプライアンスは重要だ。職務上知り得た情報を守秘するのは当たり前だ。しかし、近年それらについての取り扱いが非常に厳しくなり教育、福祉関係者らがプライバシーに触れてはいけないとがんじがらめになって、援助の選択肢が狭まっていることが気になる。
 私たちが本当に苦しんでいる人の背景に迫ることなく、肉眼で見える表彰の部分だけをもって判断することで、解決に向けて歩むことができるだろうか。
 私はたくさんの人と出会ってきたが、自分から「相談がある」と言ってくる人たちは、自らの力で問題解決する能力のまだ残っている人たちだ。私たちがより積極的に踏み込むべきは、相談にも来れず、立ち止まっている人たちだ。そのような人々にも自己責任を問う論理がまかり通っているが、それはちがう。自らの力で解決する力を喪失した人々は、少々支離滅裂でも、あるいは少々攻撃的であっても、それを包摂できるこちら側の力が必要だ。

□ 一番しんどい人を中心においたネットワーク
 子どもの問題にかかわるとき、とてもセンシティブな内容に触れることがある。例えば、シングルマザーの家庭におとなの男性が出入りをしているという情報を職務上知ることがある。非常にプライベートな内容である。このようなとき、みなさんならどうするだろうか。
 児童虐待の加害行為者の約4割が実母である。世の中にはこんなにも鬼母がいるのかと驚かれるが、そうではない。母子家庭での子育てを取り巻く構造的な矛盾から児童虐待もまた発生している。子どもの命を守るときに、こちらが躊躇して大切なことを聞かずに、いわば「もう少し様子を見守る」として問題の先送りをしたことで、より重篤化したとの事例は無数にある。
 母親に対して子どもによれば、「時々来て泊まって帰る人がいると聞いたけれど、新しくお付き合いしている方ですか」と聞くとほとんどが「どうしてそんなことまで言わないとだめか」「何の権限があって先生はそんなことまで聞くのか、プライベートの話をなぜしなければいけないのか」となる。それはそうだとう。しかし、私たちは興味本位で問いかけているわけではない。子どもが思春期を迎えるなど、家族の中で大きな変化が起こる際に揺れを抱える。そんなときに、学校が母親の「味方」になって力になれることがあると言い切れないといけない。母親の味方なんだと伝えることのできるコミュニケーション能力が求められる。
 さらに大切なことは、チームプレイだ。Minamiこども教室では、その子どもにとって安心して話をできる人は誰かということを考えている。学校や保育園でも同様で、最も話しやすい人が担任の先生だとは限らない。それは学校や保育園の仕切りがそうであるだけで、当事者にとって安心のできる対話の相手が前の担任だったら前の担任に力を借りたら良いし、管理作業員さんだったら管理作業員さんに協力してもらえばといい。一番しんどい人を中心において、どのような連携がチームとしてできるか、そこにマネジメントの主眼を置くべきだ。
 しんどい人ほどしんどいことを語りづらい。本当は日本語を聞き取っていないのにもかかわらず「はい、はい、はい、わかりました」と返事する子どもや親もいる。本当はわからずにできなかったのに、忘れたとごまかす人がいる。
 本当はつらい立場にあるにもかかわらず、つらいということを言えずに生きている人々の存在に目を向けて、出会い、向かい合い、支えることのできる地域ネットワークを広げて行かなくてはいけない。

□ ケースワークをフレームワークに
 Minamiこども教室は、“続けていくこと、あり続けること”がひとつのモットーと話したが、もうひとつ私の心にあるのが「生活をまる抱え」ということ。小学生の子どもたちが大きくなるまで家族を最後まで見守るということを決めて取り組んだ。ありがたいことに7年経ったいま、高校生や専門学校に進学した子どもたちも来てくれている。また、なにかあったら、すぐに連絡をくれる保護者もいる。
 「生活をまる抱え」を実践するには体力、知力、気力が必要だ。なので、自分の体力や、いわば私の消費期限が切れるタイミングも想定し、次へバトンタッチすることができるよう社会のありようも同時につくらなければならない。
 そこで私がいつもいうのは、「ケースワーク」を一生懸命することであるが、一方でケースワークを一生懸命しているだけでは社会は変わらない。そのケースワークから得た知見や事例分析を社会の枠組みづくりに活用していく「フレームワーク」につないでいかなければならない。いま私たちがやっていることを集約して制度や法律に変えていくということをしなければ、現場にいる人たちが疲労感は続くことになる。なので、私は、ケースワークとフレームワークを両輪として担っていきたいと考えている。私が日本国籍ならば国会議員という道を考えることもできるが、日本国籍ではないので、たくさんの人たちとともに、制度や政策をつくる作業を続けていきたい。そのための発信力を高めなくてはならない。

□ 社会の構造的な問題として捉え直す
 福祉や教育現場においてチームづくり、チームワークが極めてつくりにくい状態になっている。それは、コミュニティの分断により自己責任論が横行し、一番大事なところで自分を助けてくれる誰かがいるという安心感がないからだ。だから無難な道を選ぶという循環を生まれてきている。この問題に対しても、現場の中で一人ひとりと向き合い、ネットワークを広げる連帯感情を高めるということは欠かせない。さらに政治や選挙の力を通じて社会を変えるということも片一方で進めなければならない。
 こんなに自己責任論を横行させる福祉国家はない。アメリカのような個人主義の国でもコミュニティが存在する。それは宗教、地域、ボランティアによるコミュニティなどだ。どこかに誰かが属することのできるように、社会のあらゆるところにネットワークや連帯の拠点がある。それと比べ、日本は孤立無縁で暮らす人が多い。私たちが個別な事例に向き合うのと同時に、社会連帯を強化するための政治を確立していく必要がある