▽ 日 時 2022年3月1日(火)
▽ 参加者 7名(zoom開催)
▽ テーマ 「ギリギリを生きる紙一重な自覚と無自覚の境界とは」
ギリギリを生きるとはどのような状況であろうか。私たちはギリギリを生きると聞いてどのようなことを思い浮かべるだろうか。周りに理解してくれる方がいない、しんどさを抱えていても話ができない…。しんどさを抱え苦しくて自分の力ではどうしようもできない状況の中、その人の話を聞いてくれる人が傍に“いるか”“いないか”は、その人のその後を大きく左右するのではないだろうか。
ある夫婦の家庭では昼夜を問わない夫の闘病を支える妻の介護の大変さを共感してくれる人(親子・支援者ほか)の存在の重要さへの気づきがあった。
ある家庭では父、母、子ども一人、父は病弱で母は子どもへの当たりがきつく見えた入園当初、母は保育所での人間関係もうまくいかず、周囲へ壁を作っているような時期が続いた。私たち(保育士)から見るとギリギリな状況にあるように見えたのだが、当事者はギリギリという感覚がないという場合、当事者の感覚、当事者の気持ちをどう判断するのかということを考えるようになった。また当事者がギリギリだと思う時にありながら、なぜあなたは大丈夫だと思うのか本人に尋ねることも必要であると考えるに至った。
不登校の家庭では、母が、どうにか子どもを学校に行かせたい強い思いとともに不安、焦り悩みを抱えていた。周囲の人は子どもが学校に行かないことが悪いことではないと声を掛け、母の思いに寄り添おうとするが、母が深く考え悩む厳しい表情からはギリギリを生きる緊張度の高い状況が伺えた。
様々なケースに携わり“自立”という言葉は時として人を追い込んでしまう言葉であるのかもしれないと思うことがあった。
ギリギリを生きているか否かの違いを見定めるのは難しい。様々な事件とギリギリを生きる関係性、繋がりへと目を向けると。人口の増幅や生活の豊かさ便利さなど様々な時代の変化を遂げながら在り続ける現代社会。子どもたちは受験戦争、いじめ、不登校、クラスの人口増加など大きな流れの中で、苦しみ痛みを抱え生きている人も存在する。
生きていて、この先が見通せない、周りの理解や手を添えてくれる人がいない…。そんな状況を目の当たりにし、当事者の気持ちも変化する中で、自分だけ苦しいという気持ちに陥る可能性もあるのではないだろうか。
他者が当事者の気持ちを全て理解することは到底叶わない。しかし価値観の違いを理解しようとする気持ちは大切だ。私たちの関りが、予防という観点で意味があったのかも知れない。だからこそ寄り添うということが必要なのではないだろうか。
しかしギリギリの状況の人たちが生きる社会背景は様々である。当事者の気持ちを“分かっているつもり”と“分かっている”こととは違う。また当事者と他者との気持ちにはかなり差があることも想像できる。当事者と他者の理解に違いや差があれども「自分のことを分かってもらえた」という喜びを実感した人も存在する。
暮らしの中ですれ違い目に入る、自分とは違う価値観、異なる行動、言動、容姿など様々な違いに触れる機会がある。その人にしては大切であるが、周りから見たときに迷惑であるという違いも存在する。
関わる者として中には自分とは違う人とは関わり合う必要は無い。自分とは違う変わった風に見える人とは関わらない。自分のテリトリーを犯してこない以外は無関心。といった人の姿も見ることもある。
シンパシーからエンパシーに異なる価値観の人を理解しようとすることは様々な違いのある人が暮らす社会、地域の中において重要な力なのではないだろうか。
小学生のいじめのピークが小学二年生であるという統計がある。全国で小学生の人数は減っているのに、不登校、自死は何故増えるのか。様々な課題が重なっていくことにより、二年生のいじめや三年生の不登校に行き着く可能性もある。レジリエンスも自分の体験によって変わる中、画一的に教育される。痛ましい事実に対して私たちは無力なのだろうか。
この事実に直面している小学生の子どもたちは、まさにギリギリのラインを超えている。なぜこのような状況が生まれているのか。ギリギリでも生きている状態と自死する状況とはどう違うのか。
ひとりひとりの子どもが小学校に入学してまだ数年しかたたない中、環境の変化に戸惑い困惑しながら、伸び伸びと生きようとする思いを絶たれ、今を生きる力を奪われた上に選択した辛い現状である。
私、死のうと思ったことがあるという子がいた。死を考える人の気持ちは私も分かるという子に「あなたは、なぜ死を選ばずにすんだのか」と尋ねた。「以前、自分は何をやってもできないことが多かった。責められていないけど責められているように感じることが多かった」「そんな中、好きなアイドルが見つかった。私が死を選らばずに今があるのは好きになったことを人に話をすることが出来るようになったことが一番大きいと思う」
また高校生は、自分が死にたいという“言葉に対して”家族が過多に反応していることをこれまで見てきた。当時、私が知っていた生活の範囲は、家と学校の往復しかなかった。しかし別の逃げ場所を見つけられたことで死を選らぶこと無く今があるのではないかと思う。
引きこもりも同じく、自らが引きこもることによって自分自身の逃げ場所として必要で大切な場所を確保し、自分の命を懸命に守っている。
普通から外れていることで、周りの人からどう見られているのか、変であると思われているのか、というところが実は大切である。逃げる力や空想する力を持っている普通でない変な人こそ人間らしい人ではないかと思う。
自分の空想する力を大切にすることが出来るということが死に抗う力を持つことに繋がるのでは。
気になる子供に対してどのような部分を見て気になるのか。心配だと思ったときは知らないうちに関わっている。僕らは相手に言葉で使い思いを伝えたいだけなのに、その言葉によって知らずに相手を傷つけているかもしれないというイメージも持ちながら、自分の言葉が相手にどのように伝わっているのかということも考えていきたい。