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第25回 全国地域福祉施設協議会 (2020年度 大阪大会) 基調講演

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 基調講演


日本地域福祉施設協議会 名誉会長 阿部志郎さん

日本地域福祉施設協議会 名誉会長 阿部志郎さん

 1923年9月の1日に関東大震災が発生しました。約10万の人が犠牲になり、46万戸が焼失するという大惨事でした。この時、太平洋を航行していた米国の艦隊が司令部の指令を受けて東京に急行した。1分早ければ1人救えるというのを合言葉にして、東京に来て救援が始まり、国際的な救援と広がっていきました。神奈川県の知事が大阪の知事に「至急救援を請う」と電報しました。ところが大阪の土岐知事は3日前に北海道に転勤になっておりました。新しい知事中川望は、まだ長崎から赴任をしておりません。担当課は社会課でして、社会課の中村課長は8月の末に兵庫県に異動になり、新しい山崎巌課長は、鹿児島からまだ着いていませんでした。担当課がないのです。やむを得ず、嘱託の小河磁次郎が指揮をとることになり、力を尽くして救援に当たりました。同時に岡山の済世顧問を受けて方面委員制度を創設をし、300余名の委員を任命し、スラムを調査し、貧民の救済にあたった。その小河が日本生命に済生会を組織した。そして民間社会事業が公的社会事業を監督する、と言い放ったんです。奇想天外です。でも今考えますと、この小河の言葉、民間社会事業が公的社会事業を監督するという。もう一度耳を傾けて良いのではないでしょうか。

 19世紀の後半1884年にセツルメント運動が始まります。これは大学の教授、学生たちが、貧しさに背を向け、スラムに入ったことがない、その罪を告白して、教授と学生が共同で生活する大学の様式をそのままスラムに移して、セツルダウンしたので大学セツルメントと呼ばれました。ボランティアは大学の教授・学生・卒業生で、いわばエリート集団でありました。そこで、このエリートたちが政府に圧力をかけます。政策提言をし、政府はそれを聞かざるを得なかったと言う歴史が綴られたのです。いわば公的社会事業をセツルメントがリードするという、そういうのがセツルメントの始まりでありました。セツルメントというのは、貧民街、スラムに、ニードを見ました。衣・食・住です。食べる物はない、住む家がない。その人々に、その衣食住を充足させれば、ニードが解決するかもしれません。でもセツラーたちは、それをニードと見ないで、その背後に見えないニードを見出した。それはスラムの人々が自分の足で立ち、自分で働き、稼ぎ、自分で生活する。そのために、人と人、人格と人格のふれあい交流を、その中心に添えたのです。それがセツルメントの始まりで、見えないニードに対して、広い意味での教育を展開を致しました。

 さて今私共が騒ぎの最中にあるコロナ、目に見えません。そこにどういうニードがあるのか。コロナでソーシャルディスタンスといって、人と人が距離をだんだん遠く保つようになりました。感染した人を除外をして差別をすると言う、分断が起こっております。こういう社会で我々は一体何ができるのか、何処にニードがあって、どう解決するのかを今問われております。コロナが終息したら、いったいどういう社会をつくるか、どうやってコミュニティーを回復させるか。そのために何をしなければならないかを、今私共は考えなければならないところに来ております。

 さて私共、このニードに対応するのには、一つの知性が求められます。フーテンの寅さんが自分の甥に「俺のように勉強しなかった者は、さいの目、サイコロの目で決める」「勉強したやつは物事の順序を考えるんだと、お前勉強しろと」。諭す言葉があります。知性それは、無知の知を知る理性と申します。知識が段々溜まって来ると、確かに知識量は増えます。しかし、その周りの知らない無知の世界が広がって来るんです。この無知の世界に絶えず挑戦を、続けていくというのが、知性でありましょう。勝海舟が「着手小局、着眼大局」と言いました。私共にできることはごくわずか、でも目は広く拡げて見なさい、という教えでありまして、私共は社会全体を見渡す目を持ちながら、自分の小事に集中するという態度を取らなければならないと思います。

 もう1つは感性であります。感性というのは言わば想像力と言っていいでしょうか。自分で物事に対して想像し、そこに夢を抱く。子どもたちに、氷が溶けたらどうなると聞きますと、子どもたちは「水になる」と言います。正解。今この寒い時に、雪の中で北国の子どもたちに、氷が溶けたらどうなると聞くと、子どもの中には「春が来る」と答えます。バツです。しかし、ロマンですね、夢があります。その子どもの持つしなやかな対応、その感性を私共も持たなければならないんだと思います。

 でも、私達の現実はどうでしょうか。民間社会事業が公的社会事業を監督するという、程遠い所に今居ると思います。1957年、全国社会福祉協議会の隣保強化部会が大阪朝日新聞の講堂で開かれ、約150名の方から参加をしました。そこでの論議は、まず財政難、とってもやっていけない。財政難を解決する策として、法制化をみんな叫びました。法律にないんです隣保事業が。そこで決議をし10数名の人が全社協、そして厚生省へと陳情に参りました。今、その中で思い起こすのは、三木達子という女性です、今川学園。三木達子は、全社協に行って、牧賢一事務局長に「あなたたち何してんですか」と𠮟りました。厚生省に行っても、一歩も後へ引かない、毅然とした姿をしておられるのを今思い出します。ところが厚生省で担当課がないんです。生活課行きました。我々がやってるのは同和の隣保だけ、後は知らん。庶務課、うちは扱いません。困り果てましたけれどもようやく庶務課が相手をしてくれました。そして、その翌年58年に隣保事業施設が社会事業法に載ったのです。成功しました、陳情は。だのに社会事業法の中の隣保事業施設というのは認可施設ではなく、届け出施設になったんです。役所に届ければ勝手にできる。ということは、行政は隣保事業に全く責任を負わない。補助金、助成金、委託費は出る根拠がない。これで約3分の2以上の施設が脱落をしました。残ったのは大阪を中心にし神戸・東京・横須賀、そして金沢というごくわずかでありまして、全社協では14都道府県以上に施設がないと部会を作れないです。全社協に登録できませんね。やむを得ず、日本セッツルメント協会を組織しました。でも皆さん方あまり覚えていらっしゃらないと思います。微々たる活動しかできませんでした。それがようやく地域福祉施設協議会へと組織されて、大阪がこれを盛り上げてくれました。その地域福祉施設協議会、これからの課題は何でしょうか。今、混乱してる社会の中で、ようやく社会福祉基礎構造改革によって、地域福祉というのが浮かび上がりました。法制で初めてのことであります。その地域福祉、一体なんなのか。それをどうするか。その中核となるべき地域福祉施設は何をすべきか。私共はそれを宿題として持っています。方向は定かではないと思いますが、最近になってようやく地域包括ということが言われるようになりました。まだ実態は定かではないですね。地域包括、私の働いてきた施設を開局することになりました。で、そこでは子ども、年寄り、障がい者を1つの建物にしようという計画を立てました。その中に診療所があり、リハビリテーションもある。そこで役所では14課交渉せざるを得ないのでありまして、それぞれ言うことが異なっています。それはやむを得ません。最後の建築検査になって検査官が、老人と子どもの間に壁を建ってください。階段は別にしてください。調理室も別にしてください、指摘されました。さすがの私もこれに対しては、皆さんのお宅で、老人と子どもの間に壁を建ってるんですか。まあ言ったことがありますけれども、まあ無理を言って1つに致しました。これは行政の言う事に合理性があるんです。それは施設の基準というのは個別の施設の基準しかないんです。それを総合した施設の基準が無いんです。だから行政は総合施設を認めることはできないという立場を持っている訳です。でも地域包括というのは、それを総合して行こうと言う、そういう考え方に基づいております。

 日本で、プロテスタントで、最初に来た宣教師の1人がヘボン。ヘボン式ローマ字のヘボンです。ヘボンは医者で診療所を開きました。看護婦がおりませんで、カトリックのシスターを看護婦代わりに使いました。まだカトリックとプロテスタントは犬猿の仲の時代でありまして、人々からそれを批判されました。ヘボンが一言答えました。「戦争で第一線に戦いに立つときに、味方がどんな軍服を着ているかは、問題にならない。」それが答えでした。コミュニティの問題に取り組むときに、私共いろんな制服持ってます。社会福祉士、あるいはケアワーカー、相談員、色々ありましょう。でも、それぞれの専門職種を越えて一つになる。共同でチャレンジをしているというその姿勢を、地域包括というのだと思います。これを進めるために私共、地域福祉施設は何をしなければならないか。それは考えざるを得ないところであります。

 さて、そういう過程を経て、私共はコミュニティを作りたい。そのコミュニティを作ってゆく中心に、地域福祉施設が配置されたい、という願いを持っております。何が私共に求められるか。まずは開く事、誰をも排除しない、絶えず開くという、それがコミュニティの、まず求められる姿勢であります。宗教改革が起こって宗教戦争がありました。このときにたくさんの難民が生まれまして。その難民がジェネバに押し寄せてきた。ジェネバの城門の扉が閉まって、「開けてくれ」「中に入れてくれ」とみんなが求めました。その城門の中のジェネバのコミュニティの人々、食べるのが不足してるんです。そこに難民が入って来たら、食べるものはない、どうしようか。みんなで相談をした結果一決したのは、「一日断食しよう」。その分を難民に分けよう。門を開きました。今でもジェネバでは、9月の第一の木曜日、難民の日っていう風に定められておりまして、人々は断食をすることを定められております。人々に持てるものを分かち、お互い助け合う、それは簡単なことではないですね。ある意味では、大変辛い重荷であります。この重荷を背負っていく、それを、ネガティブケイパブリティと申します。ネガティブとは否定です。ケイパブリティというのは力、何か分からない、どうなるか分からないけれども、それに耐える力をネガティブケイパブリティと申します。私共は、分からないことだらけ。コロナが一体どうなっていくのか、いつ終息するのか、全く見当が尽きません。毎日困ることばかり、分からないことばかり、その分からなさに耐える力を欲します。

 茶道で、この茶の間に入りますのに、躙り口というのがあります。高さ68㎝、幅59㎝の小さな口であります。ここに人々が躙っていじるようにして中に入ってきます。中に入るときに昔の侍は刀を捨てました。身分肩書きに変わりなく、1人の人間としてそこを躙って入ってくるんです。そして、そこに一期一会の出会いが待ってる。今私共はその躙り口を通って行かなければならない。そういうところに来てるんだと思います。しかし、その躙り口を辛くても、苦しくても、そこを通り抜けることによって希望の光を変えることができるのでしょう。

 さらに、地域福祉施設の役割としては、市民文化を広げていかなければなりません。私の妻は、晩年車椅子でありまして、私は車椅子を押してどこへでも連れて行きまして、アメリカにも参りました。アメリカのビルに入ってエレベーターの前で待っておりますとエレベーターが来ました。満員です、もう一度もう1台待たなければと思いましたが、エレベーターに乗ってる人々が降りてきて、私共夫婦を入れてくれました。それがごく自然の出来事、特別なことでないんですね。私が自分でそんなことをしたことがありませんから頭を下げました。でもそういう市民文化を、私はどうやって作ることができるか。

 阪神淡路大震災1995年の1月17日、みなさん思い起こすでしょう。この時、翌週私は神戸参りました。雨でした。4人の茶髪の少年たちが救援物資を運んでました。雨に身体を濡らしながら救援物資を濡らすまいと、一生懸命かばって避難所に運んでおります。そこでわたくしは優しさを見ました。優しいという字は憂いに人が関わると申します。憂いを共に分かつことによって、人間の優しさが生まれるというふうではないでしょうか。1番大きな被害を受けた長田区。助けられた4人に3人は、市役所でなく、消防でなく、警察でなく、自衛隊でありませんでした。4人のうちの3人は、通りすがりの見ず知らずの人が倒れた家屋から引っ張り上げ助けられました。見ず知らずのお互いが互いに助け合った。これが震災の貴重な経験でもありました。これがさらに発展をし、東日本大震災の時に、北海道の函館が、228槽の漁船を岩手県に寄付を致しました。昭和9年の大火に対するお返しであります。社会化したんです。私共は頂いたらお返しをする。そういう風習があります。これを互酬と申します。これはヨーロッパにはないんです。結婚式に呼ばれると、お祝金を持って行く。そして持ち切れないほどの、引き出物いただいて帰ります。葬式で香典を出すと半返しでお返しを受けます。これを互酬と申します。この互酬が私共の中では日常化しておりまして、しかもそれが今普遍化したという。これは優れた日本文化でありまして、こうしたお互いの助け合いを基礎にしながら新しい文化をつくることができればということを願っております。すなわち私共にとっての課題は、新しい文化を作り上げるという、形成するということであります。基礎構造改革の7項目のアジェンダに、福祉の文化の形成という項目があります。一体福祉の文化を、どうやって作っていくのか。その福祉の文化が、まさに私共は日本文化を持ってるわけでして、これを基盤にして、その福祉の文化を創っていきたいと願ってやみません。

 もう一つは参加という事です。ボランティアです。阪神淡路130万、東日本146万のボランティアが、どこからとなく全国から澎湃として現れました。阪神で言いますと、今までに総計106万のボランティアたちが援助したそうであります。災害になると、人々が出てくるのです。しかし普段はどうでしょうか。地域福祉施設はボランティアによって支えられます。そのボランティアを一体どう理解をするか。全国調査によるとボランティアに関心があるという人が70%近いんです。しかし実際にボランティアをしてる人は、10人に1人いるかいないかです。関心があるのに行動は起こさない。その理由は、頼まれれば、誘われれば、求められれば、義理があれば出ます。待ちの姿勢です。呼び出されるの待ってるのです。その消極的なボランティアに対する関心を積極的なボランティアへと、どう育てていくか。これは地域福祉にとっても切実な課題になるに違いありません。このボランティアを広げていく、私共にとっての大きな問題であろうかと思います。

 そして最後に、今、私たちは下を向いて歩いております。私共いる町にポケモンが参りました。ひたすらスマホを見て右往左往して歩き回る。お互いぶつかると喧嘩する。下を見てるんですね。下を見て生活するのは動物です。動物は下を見るんです。しかし人間はアントロンポスと申しますけど、上を仰ぐという意味です。これは人間の特権です。月指という言葉は俳句の世界では「満月ですよ、ああきれいですね。」これ月指です。ところが、仏教の親鸞が私共に戒めました。「汝なんぞ指を見て、月を見ざるや」。私共は指を見るんです。自分の事、人の事、隣の施設の事、自分の取り組むべき相手の人、拘ります。なかなか指さす先の月が見えない。でも親鸞は「月を見よ。そこに何か新しいものが生まれるに違いない」と言うのであります。ヘレンケラーという女性がいました。口がきけない、耳が聴こえない、目が見えない三重苦の女性でありますけれど、世界の聖女と言われまして、世界中の人々の尊敬を集めた女性であります。戦前戦後と日本に二回参りまして、戦後私は公園の野外での演説を聞きました。皆さん月を見なさい。月を見て明日への夢を描けぬ人はみじめです。私共は月を見てるんでしょうか。私は年を取って初めて月が東から昇って西に沈んで行くというその様を毎日のように仰いでおります。でも私も下を向いて中々月を見ることが出来ません。上を見なさい、上を仰ぐ。そうすればそこに夢があり、そこにビジョンが描かれる。どうかお互いビジョンを描いて、一足一足と確実にそれに向かって歩いていこうではありませんか。

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